まいらいふ自由帖

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【本レビュー】夏目漱石『三四郎』の謎な部分を個人的に解釈してみる

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つい最近、夏目漱石の『三四郎』という本を読みました。

非常に面白かったのですが、後半の急展開と共に疑問に思った部分が出てきてしまいました。

そして、おそらくその部分は展開として避けられないので他の人も疑問に思う部分だと思います。

そこで、今回は『三四郎』を読んだ読者のほぼ全員が疑問に思った部分を個人的に解釈していこうと思います。

一応『三四郎』を読み終えている体で話を進めるので、まだ読んでいない人はネタバレ注意です。

三四郎について

『三四郎』とは夏目漱石が書いた小説です。

出版社によって違いますが、ページ数は大体300ページほどです。

読み慣れている人であれば1~3日あれば読むことができると思います。

ちなみに、文庫本を買わなくても青空文庫というサイトに飛べば無料で公開されており全文を読むことができます。

 

まだ読んでいない人もいると思うので、ついでに『三四郎』のあらすじもここで軽く紹介しておきます。

『三四郎』は東京の大学に通うために九州から上京してきた小川三四郎という男性が主人公の物語です。

小川三四郎と三四郎と親しい人達との東京での日常生活や大学での青春模様、里見美禰子という女性との恋模様が描かれています。

ジャンルは青春恋愛ストーリーだと思います。

 

100年以上も前の作品なのですが、簡単な文章で書かれているので非常にわかりやすく読みやすいです。

また、当時の東京がどういうものだったか知らないはずなのに、読み進めていくうちになぜか情景が浮かび上がってくるようなイメージのしやすい作品となっています。

登場人物達も難しいことをほとんど言わないので感情移入しやすい作品であることもポイントですね。

 

三四郎をオススメする理由

日本人の中で夏目漱石という偉人を知らないという人はほとんど居ないと思います。

今でも国語の教科書等に夏目漱石の作品が載っていますし、夏目漱石の作品を読んだことのある人も非常に多いのではないでしょうか。

私は夏目漱石の有名な作品を一通り読んだことがあるのですが、その有名作品の中でも特に『三四郎』をオススメしたいと思っています。

特に夏目漱石の作品をまだ読んだことがない人や中高生など若い人にぜひ読んでほしい作品です。

 

なぜ『吾輩は猫である』や『こころ』ではなく『三四郎』をオススメするのかという話なのですが、私が『三四郎』をオススメする理由は「現代人と似通った部分がたくさん描かれている」ためです。

例えば、三四郎に関して言えば序章で「行きずりの女性と宿屋で一夜を共にするが、何もしなかったために別れ際にその女性から「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」と言われてしまう」シーンがあります。

このシーンは当時では珍しい場面だと思いますが、現代では何となく想像できる気がしませんか?

この時の三四郎は現代で言うところの草食系男子であるように見受けられます。

また、女性の方から男性を誘うというような場面も、現代には肉食系女子という言葉が存在することから何となく想像できますよね。

 

そして、中盤から終盤にかけて最も面白い部分である三四郎と美禰子の恋愛模様は現代人の方が理解できるのではないかと思います。

里見美禰子という女性は非常に美しい容姿をしており、どちらかといえば日本人離れした顔立ちをしています。

また非常に知的であり、本作で彼女の思惑などが明かされないこともあって謎が多いです。

しかし、その部分がまた彼女の魅力となり読者の目には大人の色気がある妖艶な女性として映ります。

典型的な草食系男子として描かれた真面目な三四郎と、一見すると高嶺の花のようにも見える大人な女性の里見美禰子との恋愛なわけです。

両想いで結ばれるのかと思いきや、そのような展開は一切ありません。

三四郎は明確に美禰子の事が好きだと描かれていますが、美禰子に関しては三四郎の事が好き「なのかもしれない」という程度にしか描かれていません。

また、二人の行動や気持ちが噛み合うことはなく、すれ違っている部分もあればハッキリと分かれている部分もあります。

最終的にそのすれ違いは正されることなく、お互いの気持ちや思惑はすれ違ったまま美禰子は他の男性と結婚してしまい、三四郎と美禰子の恋模様は終わります。

とにかくやきもきする展開、そして、最後にはバッドエンドとも取れるような結末が待っているのです。

現代でも一筋縄ではいかない恋愛作品(バッドエンド物も含む)はたくさんありますし、上記のような作品を見たことがあるというだけでなく実際にこのような恋愛を体験したことがあるという人も居るかと思います。

現代人にとって珍しい展開ではなく身の回りで生じてもおかしくない展開なので、非常に感情移入がしやすい作品なのです。

また、文章も簡単でわかりやすく読みやすいので感情移入できることも相まって、スラスラと読み進めることができると思います。

 

ちなみに、『三四郎』という作品は夏目漱石の『それから』と『門』という作品と話が重なる三部作になっています。

内容は繋がっていませんが、三部構成のように描かれているので気になる人は他の作品も読んでみるといいかもしれません。

話の順番は『三四郎』→『それから』→『門』です。

『三四郎』を読み終わった人はぜひ『それから』と『門』も読んでみてください。

個人的に、この三部作の中で一番わかりやすいと感じたのは『三四郎』で一番難しいと感じたのは『門』でした。

この三部作は簡単な導入から複雑な物語へと発展していくような構成になっています。

なので、『門』や『それから』から読もうとしていた人は、まずは『三四郎』から読み進めることをオススメします。 

 

三四郎と美禰子の恋愛について

『三四郎』を読み終わった人のほとんどは疑問に思った部分ではないでしょうか。

ここでは三四郎と美禰子の恋愛について触れていこうと思います。

 

そもそもどこが謎なのかという話なのですが、中盤で美禰子は三四郎に好意を抱いているような描写があります。

しかし、それ以前に美禰子は三四郎の先輩である野々宮と非常に親しい関係であるような描かれ方をしているのです。

三四郎は美禰子に対して『野々宮さんと恋人関係ではないのか?』という思いを抱いたり、『野々宮さんを振り向かせたいがために自分を利用したのか』と怒るシーンがあります。

それでも、美禰子の事が好きな三四郎は美禰子に告白するのですが、美禰子はその告白を受け入れずに自分の兄の友人である男性と結婚してしまうのです。

なぜ美禰子は好意を抱いていた三四郎や野々宮をあえて選ばず兄の友人を選んだのでしょうか?

そもそも美禰子は三四郎や野々宮のことが好きではなかったのでしょうか?

この作品を読み終えた人は以上のような疑問が浮かぶと思います。

ちなみに、正解はこの作品を書いた夏目漱石以外誰にもわかりません。

なので、あくまでも推測で個人的に解釈していこうと思います。

 

美禰子の思惑について

人によっては美禰子は思わせぶりな女性だと感じるかもしれません。

しかし、美禰子は三四郎や野々宮の気持ちを弄ぶつもりはなかったと思います。

では、「なぜそのような振る舞いをしていたのか、結果的に三角関係のような関係性になってしまったのか」という点についてですが、私は美禰子は三四郎・野々宮に対して特別な思いを抱いておらず、そもそも全ての男性に対してフラットに接していたのではないかと思っています。

つまり、友人以上の好意を抱くことはなく、仮に好意を抱き友人以上の関係になったとしても恋人にはならなかったと思うのです。

実際、作中では野々宮と非常に親しい間柄であるように描かれていますが、交際していることを明確に示す文章は無かったと思います。(私の見過ごしだったらすいません。)

そして、三四郎に対しても好意を抱いているような場面は存在するものの明確に好意を抱いているという表現はなされていないのです。

以上から、特定の人物を好きだと判断することは間違いなのではないかと思います。

美禰子は非常に美しい顔立ちをしており非常に聡明な女性です。

おそらく自分自身が男性にとって高嶺の花であるということも自覚していたと思います。

そのような環境でありながら、仮に好きだという気持ちがあり恋人の関係(当時だと夫婦の関係)になりたいと思った場合、聡明な女性である美禰子であれば自分から好意を示し夫婦の関係になりたいと行動するのではないでしょうか。

言葉に出さずとも、彼女であれば自分の好意を伝えることなど造作もないでしょう。

しかし、彼女はそういったことを一切していません。

以上のことを踏まえて考えた場合、三四郎・野々宮に対してそもそも特別な好意は抱いていないと思います。

逆に、野々宮に対して特別な好意を抱いていたと考えるのであれば、三四郎にも同じようにその好意を抱いており、美禰子にとって三四郎・野々宮は優劣は無く二人とも同じような関係であったと思います。

美禰子にとって三四郎・野々宮とはあくまでもフラットな関係であり、思わせぶりな行動は二人を振り向かせたかったわけではなく、美禰子にとっては至って普通なスキンシップであったと受け取った方が良いのではないでしょうか。

美禰子を悪女や魔性の女だと考えるなら、その関係性をわかっていながら自ら楽しんでいたと考えても面白いと思います。

読み手がはっきりとわかる情報は「三四郎は美禰子の事が好き」ということだけですから実はそもそも三角関係にすらなっていないのかもしれません。

 

兄の友人について

お見合いをし夫婦関係となった美禰子と美禰子の兄の友人ですが、なぜ美禰子は兄の友人を選んだのでしょうか。

どうやらこの件に関しては諸説があるらしく、「美禰子の兄が結婚するのでそのタイミングに合わせて自分も結婚した」という説や「美禰子の兄の友人は紳士的な見た目で社会的地位も高く経済的にも余裕があり、自分と釣り合う相手として兄の友人を選んだ」という説があります。

両親はすでに他界しており、美禰子と美禰子の兄である里見恭助は二人暮らしをしています。

美禰子は兄の世話をするという形で二人で暮らしていたのですが、その兄が結婚することになり美禰子が邪魔な存在になってしまうという事情があります。

なので、タイミング的には事情を考慮した結果お見合い結婚をするという選択はおかしくないです。

また、三四郎の友人である与次郎が「美禰子は夫として尊敬のできない男の所へは嫁に行く気はない」という発言をしています。

美禰子が言ったわけではないので信ぴょう性は欠けますが、この発言はかなり重要な手がかりになると思います。

「三四郎・野々宮は尊敬できないわけではないが夫としては尊敬できない」と美禰子が考えていたのなら、三四郎・野々宮は夫として適していないわけです。

特別な好意を抱いておらずフラットな関係であったと考えた場合、なおさら結婚しようとは思わないでしょう。

また、美禰子には三四郎が就職するまで待つ時間は残されておらず、三四郎が将来夫として尊敬できるような人物に成長したとしても、その時まで結婚しないという選択は選べません。

その点、兄の友人という多少なりとも信頼の置ける人物であり、なおかつ「見た目も紳士的で社会的地位も高く経済力もある」という三四郎・野々宮には無い長所もあるなら、自分と釣り合う相手として兄の友人を夫に選ぶということもおかしくないです。

以上から、兄の友人と結婚した理由として相手の事が好きだという気持ちよりも優先しなければいけなかった事情があったと考える方が良いと思います。

三四郎・野々宮に夫としての可能性が無かったわけではないと思いますが、事情を考慮すれば三四郎・野々宮ではなく兄の友人を選んだことも致し方ないと言えるのではないでしょうか。

 

三四郎が美禰子と恋人になることはあったのか

ここからは完全に空想の話になりますが、三四郎と美禰子が恋人になる可能性があったのかという点について考えてみようと思います。

この点は序章の部分を用いて完全に否定できると思います。

序章は小川三四郎という人物についての自己紹介のような話なのですが、それと同時に三四郎の生真面目さが仇となって草食系男子であるということが露呈してしまいます。

一夜を共にするも結局何もすることが出来ず、行きずりの女性との別れ際にその女性から「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」と言われてしまうのですが、この場面は三四郎から誘ったわけではなく女性の方から誘っているんですよね。

当時ではあまり考えられない場面だと思うので、このことから三四郎は一般的な男子学生よりも秀でた部分があったのではないかと思います。

例えば、三四郎は一般的な男子学生よりも端正な顔立ちをしていたり、筋肉質で体格が良いなどの要素があったのではないでしょうか。

なので、外見は見ず知らずの女性から誘われるほど魅力的なのですが、内面は女性に対して何も出来ない生真面目な人間だということがここでわかります。

また、行きずりの女性は三四郎に「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」と言い別れた後は本作に一切登場しません。

美禰子とは全く違う人物なのですが素性がほとんど明かされておらず、また序章以後は一切登場しないため色気のある非常に謎めいた女性として読者の目に映ります。

序章のこの部分を利用して三四郎は三四郎として美禰子は行きずりの女として人物像を重ねてみます。

すると、三四郎は美禰子と対等な立場ではなく美禰子からあしらわれる立場であることがわかると思います。

また、序章の場面は尊敬というより一種の侮蔑が感じられます。

そのため、三四郎と美禰子の恋愛に関しては序章の部分が暗に重なっていると考えれば明確に否定できることが伝わると思います。

なので、三四郎と美禰子の恋が成就することは描かれていませんし、空想の話になりますが成就することはありえないでしょう。

 

最大の謎である「我はわが愆を知る。わが罪は常にわが前にあり」について

『三四郎』最大の謎としてよく取り上げられるのが、教会での美禰子と三四郎の会話の場面です。

 美禰子と三四郎が別れる前に美禰子は「我はわが愆を知る。わが罪は常にわが前にあり」と独り言のように言い別れます。

「このフレーズは一体どういう意味なのか?誰に対して発言したのか?」というのが読者にとって意見の分かれるところでもあります。

調べてみたところ、こちらの文言は旧約聖書からの引用であり、懺悔として用いられたものらしいんですよね。

ということは「誰かに対して謝っているのか?もしくは懺悔を求めているのか?」という点が争点になります。

色々な考え方があるのでおそらく色々な意見が出てくると思うのですが、最も多い意見は「三四郎に対して謝っていた」ではないかと思います。

美禰子は非常に賢い女性なので自分の謝罪をオブラートに包んだ言い方として上記の文言を引用したということなのだろうと思います。

しかし、ストレートな事をそのまま書いても面白くないですよね。

ということで、せっかくなので少し変わった見方をしてみようと思います。

私の中で2つの説があるのですが、1つ目は「美禰子が今まで関わった男性全員に対しての懺悔である」という説と2つ目は「自分の意見をはっきりと伝えずにごまかすために言ったのではないか」という説です。

 

「美禰子が今まで関わった全員に対しての懺悔である」説

まず、1つ目の「美禰子が今まで関わった全員に対しての懺悔である」という説について説明します。

この説は今まで美禰子は自分が男性に対して行った行為について一切気づいておらず、三四郎と会話をしたことで初めて自分が行った行為の罪の重さを知り、目の前に居る三四郎を含む全ての男性に対して懺悔をしたという説です。

美禰子は非常に美しい姿をした女性です。

男性であれば自然と目が行ってしまう、美禰子と少しでも接点があれば積極的に関わりを持とうとしてしまうような魅力溢れる女性なのです。

本作に登場する男性である三四郎・野々宮・広田・与次郎・原口以外にも美禰子が関係を持った男性は他に居て、三四郎・野々宮のように親しい関係に発展した男性がたくさん居てもおかしくないわけです。

ただ、今まで自分が行ってきた行為(スキンシップのつもりが思わせぶりな行動だった)について勘違いさせてしまった三四郎を目の前にしたことで初めて知り、そしてその行動をきっかけに「自分が関わった全ての男性に悪いことをした」という罪の意識がなければ成り立たない説です。

美禰子ほどの賢い女性が自分がしてきた行いについて何も理解していない、ましてや、罪だと認識するとは考えにくいですし、勘違いさせてしまった三四郎を目の前にして初めて知るというのもおかしな話です。

そして、全ての男性といってもこの作品に登場する美禰子に関わる主な男性は5人ほどです。

作品に居ない人物を想像で作りだして作品に関係ないことを自分で付け足して説を作り上げるというのは正しくないと思います。

なので1つ目の説は聞こえはいいですが確実に破綻していると思います。

 

「自分の意見をはっきりと伝えずにごまかすために言ったのではないか」説

次に2つ目の説である「自分の意見をはっきりと伝えずにごまかすために言ったのではないか」について説明します。

ちなみに、私は個人的にこちらの説を推したいと思っています。

この説は話の流れやその時の状況などを一切考慮せず、里見美禰子という人物のみに焦点を当てた説です。

三四郎と美禰子の最後の会話の舞台は教会から出てすぐの所です。

三四郎は最後の場面で美禰子が教会に行っていることを初めて知るのですが、美禰子は教会に足を運んでいたことからキリスト教を信仰していたと思います。

そして、おそらく敬虔な信者だったのではないかと思います。

なぜかというと、作中に何度か出てくる「ストレイシープ」そして「我はわが愆を知る。わが罪は常にわが前にあり」は聖書に登場する言葉なのです。

ちなみに「我はわが愆を知る。わが罪は常にわが前にあり」は旧約聖書、「ストレイシープ」は新約聖書に登場する言葉のようです。

旧約聖書と新約聖書は2冊に分かれておりどちらか片方を読むという人も多いのですが、本来は2冊とも読むべきだとされています。

このことから、美禰子はキリスト教の信者であり旧約聖書と新約聖書を読んだことがある、もしくは、日頃から読んでおり熟読していたと考えても良いと思います。

三四郎と美禰子の会話で初めて「ストレイシープ」が登場する場面があるのですが、美禰子が迷子の英訳としてストレイシープという言葉を教える場面、その後意味ありげに小さな声でストレイシープと呟く場面が2度ほどあります。

このストレイシープという言葉は英語の熟語として存在しており「迷える羊、どうしてよいかわからず、迷っている人」という意味があるのですが、この意味の方にあまり注視しなくてもよいのではないかと思います。

つまり、「美禰子にとって『ストレイシープ』という言葉が当てはまるような場面であった(野々宮兄妹と広田と三四郎と美禰子で出かけたが三四郎と美禰子だけはぐれるシーン)」、「美禰子は聡明な女性で意見を率直に伝えることを良しとせずどちらかといえばオブラートに包んだ言い方や詩人のような言い方を好んでいた」という背景があり、特別な意図は存在せずそれとなく場面に合った言葉として「ストレイシープ」と発言したのではないでしょうか。

美禰子は美しく聡明で謎多き女性なのでそのような女性が意味深な発言をすれば、男はたちまち興味を持ってしまうでしょう。

現に、次の章で三四郎は自分のノートに「stray sheep」とむやみやたらに書いています。

先ほどの背景を利用すれば、教会前での三四郎と美禰子の会話の場面も説明できると思います。

美禰子はお金を返すということだけで何かを悟ったような雰囲気があり、三四郎の「結婚なさるそうですね」という発言に応えて「我はわが愆を知る。わが罪は常にわが前にあり」と言っています。

この時の美禰子は複雑な感情を抱いているように見えます。

悪いことをしたという罪の意識だけでなく、なぜ貸した金を返しにきたのか、なぜ結婚するということを知っているのか、それを知った結果三四郎がどういう感情を抱き自分の所へ現れたのか、など描かれていませんが一言では言い表せない気持ちだったのではないでしょうか。

そして、オブラートに包んだ言い方や詩人のような言い方を好んでいたのであれば、お金を受け取ってからの意味ありげな行動、美禰子の表情、聞き取れないくらいの声で発せられた「我はわが愆を知る。わが罪は常にわが前にあり」も理解できます。

意味ありげな行動から「我はわが愆を知る。わが罪は常にわが前にあり」まで、まるで1つの詩のように構成されているように見えます。

この場面は行動や発言の1つ1つに重要視しなければいけない意味はそれほどないですが、全体として見れば謝罪や懺悔のように見えるというわけです。

なので、「我はわが愆を知る。わが罪は常にわが前にあり」は懺悔として取れる言葉なのですが、こちらも「じゃあ誰かに謝罪をしているのか?懺悔なのか?」と意味を注意深く考える必要はないと思います。

三四郎を目の前にし三四郎の気持ちを悟り言葉では言い表せない複雑な感情を抱きながら、美禰子が選んだ言葉は聖書に載っている「我はわが愆を知る。わが罪は常にわが前にあり」でありそれをそのまま三四郎に伝えるわけでもなく聞き取れないほどの小さな声で発したのです。

謝罪や弁解をしたいのであれば回りくどい言い方をしなくとも美禰子であればそのまま伝えることはできたはずです。

すなわち、「そのまま謝罪や弁解をすることもふさわしくない」と考え「この言葉がふさわしいのではないか」と考えた美禰子が選んだ言葉こそ「我はわが愆を知る。わが罪は常にわが前にあり」なのです。

この言葉のみに目を向ければ様々な意見が出てきますが、目を向けなければ美禰子の一連の行動は詩のように構成されており、「我はわが愆を知る。わが罪は常にわが前にあり」は詩を終わらせるための締めの言葉なのです。

これが私の考えた「自分の意見をはっきりと伝えずにごまかすために言ったのではないか」という説です。

この説では、ごまかすためという言い方は悪い表現ですが、自分の意見をはっきりと伝えられなかった、結果的にこの場面に合った表現として「我はわが愆を知る。わが罪は常にわが前にあり」という言葉を用いてしまったと、考えた方が良いと思います。

 

終わりに

今回は夏目漱石の『三四郎』という作品について本のレビューや自分の考えを述べてみました。

『三四郎』は現代人とどこか似通った部分も多く現代の恋愛とも重なる部分があり面白い作品だと思います。

そして、読んだ際には里見美禰子という女性の魅力を存分に感じてみてください。

美しく日本人離れした顔立ちかつ頭も良く知的な女性で非常に品があり、高嶺の花かと思えば「好きなのか?」と男を勘違いさせるような思わせぶりな行動をする。

かと思えば、突然誰も知らないような男性と結婚するような謎多き女性です。

三四郎と同じぐらいの年齢(三四郎は確か22~23歳)らしいのですが、読んでいるとまさに大人の女性という感じがします。

私は美禰子の魅力に惹きつけられてこのレビューを書こうと思ったくらいなので、ぜひ『三四郎』を読む人は美禰子にも注意して読んでもらえるといいかと思います。

まだ読んでいない人はぜひこの機会に興味を持っていただけたら読んでもらえると嬉しいです。